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戦国武将から学ぶ事業承継とM&A

事業継承

M&A

最近、事業承継やM&Aに携わっていてよく感じるのが、人も企業もいかに次の世代にうまく適切なタイミングでバトンを繋げていくかが重要だということです。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。」

これはご存知の通り、平家物語『祇園精舎』の冒頭部分です。

どんなに経営がうまくいっていてもそれは永遠には続かないですし、トップである経営者もどこかで引退しなければいけないという前提の中で、会社を引き継ぐ相手やタイミング、その手法は非常に大切であることは言うまでもありません。

今回は事業承継におけるそのタイミングや相手選びをポイントに、群雄割拠の戦国時代を駆け抜けた名だたる武将たちの事業承継、M&A戦略をお伝えしていきます。

1.敵対的M&Aの先駆者は事業承継も準備万端…のはずが「織田信長」

織田信長と言えばまず初めに「本能寺の変」を思い出す方も多いのではないでしょうか。

天下統一を目前にしながらも天正10年(1582年)に京都の本能寺で家臣の明智光秀によって討たれた有名な事件ですが、そこに至るまではあと数年で戦国の世で初めて日本を統一することができる可能性があったほど順調に各地域を次々と平定していました。

信長自身も敵対する他国の大名に倒されるのではなく、まさか一番身近な家臣に裏切られるとは思ってもいなかったことでしょう。

信長のイメージとしては、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」で知られる通り、邪魔するものは敵でも見方でも許さない傍若無人、自分勝手な人物像がありますが、その国のトップとしての経営手腕は素晴らしいものでした。例えば経済に関しては「楽市楽座令」を発して、商人たちが自由に商売をできる環境を用意して、税の負担も軽くしました。また信長はルイス・フロイスなどの宣教師を招き、彼らから西洋の知識も積極的に吸収していきました。

他国との戦略面でも常に斬新で新しい発想を用いて戦を有利に進めることが出来ました。有名なのは、当時他の大名たちが実践にはあまり向かないと及び腰だった鉄砲を、信長は大量かつ一斉に打つアイデアで実践に取り入れていきました。これが結果として、戦国最強といわれた騎馬隊を率いる武田頼勝との「長篠の戦い」の勝利にも繋がっていきます。

このように「尾張一のおおうつけ」と呼ばれた破天荒な信長ですが、実はとても思慮深く、戦略家だったようで、その姿勢は自身の事業承継対策にも表れています。

信長は天正4年(1576年)には嫡男の信忠に織田家の家督を譲り、その流れで織田家にとっては重要な地である尾張と美濃の支配を任せました。このとき信長はまだ41歳という年齢で天下統一に向けて勢いに乗っていた時期です。このような状況下で息子に承継をしていくことは、現代の経営者でもなかなか難しいことではないでしょうか。

実際に信忠は父の期待に応えて戦でも着実に実績を挙げていきました。信長としては早くから息子に経験を積ませて武功を積ませることで、周りの者たちにも自分の後継者として認めさせていく目論見があったのでしょう。

しかし、その信忠も結果としては「本能寺の変」において自分も明智軍に襲われると思い込んでしまい、最終的に二条御所で自害してしまいます。実際にはまだ十分逃げ出せることが出来たという説もあるのですが、そこまでの考えと度胸が当時の信忠にはまだ備わっていなかったのでしょう。そういう意味では、事業承継において後継者候補に経験を積ませていくということは、早いに越したことはないのかもしれません。

信長といえばもう一つ有名なのが、激しい他国への侵略があります。これは現在に例えるとまさに「敵対的M&A」であり、これも最終的に様々な人間の恨みを買ってしまい、「本能寺の変」へと繋がっていったようにも思われます。自分に歯向かった大名の領民は女子供も容赦なく惨殺せよと家臣には命じていたようです。

反面、その後に天下統一を実現した豊臣秀吉は、天性の人たらしであり、どうすれば人が喜ぶのかをよく理解していました。信長の没後には自身が関白という役職につき、諸大名に対してはその役職に従ってくれさえすれば領土もそのままでいいといったスタンスだったようで、これが天下統一を早めた要因ともいわれています。

現代のM&Aでも統合後のPMIが非常に重要なように、吸収合併された側の社員(領民)を大切に扱うということは、当時もいまも変わらないのかもしれません。

2.「豊臣秀吉」にみる親族内事業承継の失敗事例

上記のように天下統一を成し遂げた豊臣秀吉も、自身の事業承継はうまくいきませんでした。

長らく子供を授かることが出来なかった秀吉は、54歳のときにようやく甥の秀次を後継者に任命して関白の職を譲りました。しかしその後に実子の秀頼が産まれたので、58歳の時になんと秀次を死に追いやってしまいます。そのため天下分け目の決戦となった関ヶ原の戦いのときでも秀頼はまだ8歳という状況でした。

秀吉の事業承継の失敗にはまさに現代にも通ずる二つの大きな原因があります。

まず一つ目は、後継者選びという承継対策が遅すぎたことです。子供がいなかったことは仕方がないことですが、そうであればもっと早くに親戚から後継ぎ候補を連れてくるなどすべきだったのではないでしょうか。秀吉は亡くなる間際に、徳川家康ら五大老に対して、息子の秀頼を頼むと伝えたようですが、百戦錬磨の戦国武将たちとまだ幼い秀頼が直接やり合うことの難しさは想像にたやすいことです。

秀吉の事業承継失敗の原因は、「遅きに失する」、この一言に尽きるのではないでしょうか。

3.戦国最強の事業承継マスター「徳川家康」

ここまで事業承継にあまりうまくいかなかった例を書いてきましたが、最後に260年近く続いた徳川幕府の礎を築いた徳川家康の事業承継の考え方と対策を見ていきましょう。

家康は1600年に関ヶ原の戦いに勝利してその後江戸幕府を開きました。しかしトップに君臨していたのはたったの2年間で、すぐに後継者の三男の秀忠に権力を引き継ぎます。

まだ経験不足だった秀忠に早くから将軍としての経験を積ませ、自身は駿府に戻り大御所として遠くから二代目後継者のサポートをしていきます。若いうちから幕府の運営を任せることで、将軍としての自覚を植え付ける目的もあったのでしょう。

家康のすごい点は、なんと二代目の後の三代目まで指名していたことです。当時秀忠には家光と忠長という2人の息子がいましたが、家光を後継者にするように厳しく伝えていたようです。放っておけばいずれ兄弟による骨肉の争いになることを予見して、自分の力が健在な時から対策していたのでしょう。

さらに家康の事業承継対策が優れている点は、いずれ将軍家の直系の血筋が途切れた時まで考えていたことです。当時は徳川御三家と呼ばれる有力大名がいましたが、そのうち尾張藩と紀州藩から後継ぎを出すように指示していました。この判断も後にうまく繋がっていき、七代将軍家継の死去で徳川家からの後継ぎがいなくなった際は、紀州藩から後継者を迎え入れました。それが現代のテレビドラマで「暴れん坊将軍」として有名な八代将軍吉宗です。

今回は3人の戦国を代表する武将たちの事業承継やM&Aの事例を書いてきましたが、ここからわかることは今も昔も共通することは多いということです。事業承継を考えるタイミングや後継者候補の選び方、買収合併した時の相手方への接し方など、やはりどれも重要で慎重に行うべきだと改めて考えさせられました。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」

上記も最近の流れに乗っかり、かの織田信長も好んだといわれる幸若舞「敦盛」の一節ですが、いかに現代の平均寿命が延びたとはいえ、仕事に全力を傾けられる時間はやはり短いものであって、その中で事業承継は自身が元気なうちに早くから検討することが重要であります。そして、M&Aも戦略として「時間を買う」と言われることがありますが、自社の事業拡大のためにも、また引継ぎ先を探す手段としても今後益々有効な手段となっていくでしょう。

執筆者
デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリー合同会社
イノベーション FAプラットフォーム
シニアヴァイスプレジデント 宮川 文彦

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